春日若宮おん祭

御旅所祭について

Otabisyosai

12月17日 午後2時半~

場所:一の鳥居内、御旅所

御旅所には正面の一段高い所に若宮様の行宮あんぐう(御仮殿)があり、その前に小高く約五間(9メートル)四方の芝舞台がある。その前には左・右に鼉太鼓だたいこが据えられ、それをとり囲むように周囲に幄舎あくしゃが設けられている。

御旅所祭は午後2時半に始まる。御渡り式最後の大名行列のかけ声が、まだ参道にこだましているなかを神職が参進し、左・右の鼉太鼓が鼕々と打ち鳴らされ、奏楽(十天楽)のうちに若宮様にお供え(神饌)が捧げられる。このお供えは、お米を青黄赤白に染め分けて飾る「染御供そめごく」など古式の珍しいものである。

続いて宮司が御幣を捧げ、祝詞を奏上した後に行宮の下に座を進め、日使の奉幣・祝詞があり、各種団体の代表、大和士などの拝礼が行われる。
この後、午後3時半頃から神遊がなされ、神楽・田楽・細男・猿楽(能楽)・舞楽など、午後10時半過まで各種芸能が奉納される。まさに生きている芸能の歴史を目のあたりにするようで、けだし圧巻である。

奉納(文化財指定古典芸能)
午後3時半〜午後10時半頃まで

神楽(かぐら)

社伝神楽は、八人の御巫みかんこ(春日大社では「巫女」を「御巫」という)による八乙女舞を骨子としたもので、その起源は古く平安時代初期の延喜年間(901~22)にまで遡ることができる。伴奏のことを地方じかたといい、御巫の上﨟じょうろう琴師ことしを勤め、神職が勤める歌を唄う本歌役が笏拍子を打ち、付歌役は銅拍子と小鼓を打ち、笛役が神楽笛を奏する。
正装した六人の御巫が、「進み歌」に合わせて、楽舎から舞台まで桧扇を胸にかざしてしずしずと進む。
舞は、先ず二人舞の「神のます」「千代まで」、次に白拍子舞の進み歌「鶴の子」に合わせて一の巫女が楽舎より舞台に進み出で一人舞の「松のいはひ」を舞う。次に六人舞の「宮人」、四人舞の「千歳」と合計六曲が舞われ、「立ち歌」によって退下する。御旅所における神楽は、春日大社の多くの祭典のなかでも最も大儀で華やいだもので、その装束も最も格式あるものを用いる。

東遊(あずまあそび)

神楽が終って、行宮の瓜灯籠と舞台の周囲六ヶ所に設けられた篝火に火が入れられると、東遊が始まる。
安閑天皇の御代、駿河国の宇度浜に天女が降り、舞い遊んだという故事から起こった東国の風俗舞といわれる。 青摺の袍に太刀をき、巻纓の冠をいただいた舞人四人(童児)が凛々しく「駿河舞するがまい」と「求子舞もとめごまい」の二曲を舞う。子どもが舞うのは他に例がなく、珍しい。

田楽(でんがく)

田楽の起源については、神に五穀豊穣を祈る楽であるとか、農民を慰労するために演じた所作であるとか、田舞から出たもの、又は散楽さんがく(奈良時代に中国から伝わった曲芸の類)から転じたものなど種々の説がある。
春日田楽はおん祭が行われた当初から奉納されており、かつては田楽能もあり、名人もいた。世阿弥が12才のとき、おん祭前日に行われる装束賜りの能に田楽の喜阿弥がじょうを演じるのをわざわざ見に行って感服したことが「申楽談義さるがくだんぎ」にのべられている。
はじめは本・新座それぞれからの奉幣で、五色の大幣を各一束ずつ神前に献じる。次いで「中門口」の囃子はやしを奏し、曲芸の「刀玉かたなだま」「高足こうそく」と進み、「もどき開口かいこう立合舞たちあいまい」という短い能を演じる。

細男(せいのお)

神功皇后の故事にちなむもので、筑紫の浜で、ある老人が「細男を舞えば磯良いそらと申す者が海中より出て干珠かんじゅ満珠まんじゅの玉を献上す」と言ったので、これを舞ったところ、磯良が出てきたが顔に貝殻がついていたので覆面をしていたという物語りが伝わっており、八幡神系の芸能と考えられている。

白い浄衣を着けた六人の舞人が白い布を目の下に垂らし、うち二人が小鼓を胸から下げ、二人は素手でいる。あとの二人は笛の役である。小鼓を打ち、袖で顔を覆いながら進み、また退いて拝舞はいぶする素朴なものであるが、独得の雰囲気をかもし出す実に神秘的な舞である。わが国芸能史のうえでも他に遺例のない貴重なものである。

神楽式(かぐらしき)

神楽式とは、おきなを略式にしたものである。翁は新年や大事な演能会・神事の能のはじめには必ず行われて、天下泰平・国土安穏を祈願する儀式である。

常の翁はすべてが仰々しいものであるが、この神楽式は、シテの翁は浄衣に白の指貫をつけ、三番三さんばそうは浄衣に白の大口をつけ、面はつけずに舞う。千歳は出ない。地謡や囃子方は裃を着用する。
後見が最初に正先へ鈴を出し、囃子方と地謡が座に着いてから、シテの翁と三番三が出て、翁が始まる。三番三は翁返りのあとすぐ鈴の段を舞う。
明治の初年、金春広成が、金剛氏成と協議の上定められ、おん祭の御旅所神前の特別な翁として現在に至っている。

和舞(やまとまい)

和舞は大和の風俗舞で、春日大社では古くから行われてきた。現在、神主舞が四曲、諸司舞六曲及び進歌・立歌・槲酒かわしざけ歌・交替歌・神主舞前歌等が伝えられている。

神主舞は一人または二人で、諸司舞は四人または六人にて舞われる。舞人は巻纓の冠に採物として榊の枝や桧扇をもち、青摺の小忌衣おみごろもをつけ虎皮の尻鞘しりざやで飾られた太刀をく。諸司舞の四段以降は小忌衣の右袖をぬぐ。歌方は、和琴・笏拍子(歌)・神楽笛・篳篥及び付歌・琴持にて行われる。

おん祭では神主舞一曲、諸司舞二曲が舞われるのが近年の通例となっている。

舞楽(その1)

舞楽は、飛鳥・白鳳から奈良時代にかけて古代朝鮮や中国大陸から伝えられ、わが国において大成されたもので、のちに日本で作られたものも含めて、その伝来や特徴から左舞及び右舞に分類されている。

左舞は中国や印度支那方面から伝えられたもので、赤色系統の装束を着け、右舞は朝鮮地方や渤海国ぼっかいこく等から伝えられたもので、緑色を基調とした装束で舞われ、左舞は唐楽とうがく、右舞は高麗楽こまがくとも呼ばれ、演奏は一般的に左舞・右舞を一対(番舞つがいまいという)とし、それが何組か舞われるのが慣例となっている。おん祭の御旅所祭では五番、十曲が舞われる。 これらの舞楽は、天下の三方楽所といわれた京都、奈良、天王寺(大阪)に伝わり、それぞれ特色ある芸能を受け継いで来た。現在、宮中の楽部にはこの三方から楽家が奉仕されているが、奈良は春日大社を中心に公益財団法人の南都楽所がこの南都舞楽の伝統を受け継いでいる。

振鉾三節(えんぶさんせつ)

舞楽の始めに舞われる曲で国土安穏と雅音成就を祈る。まず鉾を持った赤袍の左方舞人、ついで緑袍の右方舞人がそれぞれ笛の乱声らんじょうに合わせて舞い、最後に二人が鉾を振り合わせる。

萬歳楽(まんざいらく)=左舞

隋の煬帝が楽正の白明達に作らせたもので、鳳凰が「萬歳(まんざい)」と唱えるのを舞に表したものといわれている。慶賀の際には必ず舞われる荘重閑雅、気品の高い曲である。舞人は四人、赤の常装束に鳥甲とりかぶとを冠っている。

延喜楽(えんぎらく)=右舞

延喜年間(901~922)に山城守の藤原忠房が作曲、敦実親王が作舞したもので、高麗楽の形式によっている。四人舞。緑色の常装束を着ており、萬歳楽とは一対となり、同じく慶賀必奏の舞である。

賀殿(かてん)=左舞

仁明天皇の嘉祥年間(848~850)に遣唐使判官の藤原貞敏が琵琶の譜によって習い伝えた曲に、楽人の林真倉が舞を振りつけたといわれている。すこぶる変化のある動きの早い舞である。四人舞。袍の両肩をぬいだ形で、裾と前掛をつける。

地久(ちきゅう)=右舞

(長保楽と隔年で奉仕)
朝鮮半島伝来の四人舞で、緑色常装束に赤い優しい面をつけ、鳳凰をあしらった鳥甲を冠って舞う優美な舞で破と急がある。
曲名の「地久」は、大地が永久に変わらず、存在するのを意味しているといわれている。

長保楽(ちょうぼうらく)=右舞

(地久と隔年で奉仕)
保曽呂久世利ほそろくせりを破の曲に賀利夜須かりやすを急の曲として一条天皇の長保年間(999~1004)に一曲にまとめたもので、その時の年号を曲名にしたといわれている。地久と同じく四人舞で、蛮絵ばんえ装束に巻纓冠けんえいかんを着して舞う。
以上の萬歳楽から長保楽までの曲を平舞ひらまいという。

舞楽(その2)

蘭陵王(らんりょうおう)=左舞

中国・北斉の王、蘭陵王長恭という勇将が戦を終えたとき、諸軍士と平和を寿いだといわれている舞である。一説には印度から伝わった曲であるともいわれている。
長恭は美青年だったため戦場におもむく時は、いつも恐ろしい面をつけて軍を指揮し、その武勇は轟いていたという。
舞人は竜頭を頭上にし、あごをひもで吊り下げて金色の面をつけ、緋房のついた金色のばちをもち、朱の袍に雲竜を表した裲襠りょうとう装束をつけて勇壮に舞う。舞楽の中でも最も代表的なもののひとつである。

納曽利(なそり)=右舞

伝来不詳だが、竜の舞い遊ぶさまを表した曲といわれ、破と急の二楽章から成る曲である。舞人は竜をかたどった吊りあごの面をつけ、毛べりの裲襠りょうとう装束を着け銀色のばちをもって舞う。
蘭陵王とともに一対をなし、競馬の「勝負舞」とされている。御渡り式の折、表参道で行われた勝敗によって、勝者が先に敗者があとに奉納される。

散手(さんじゅ)=左舞

散手破陣楽さんじゅはじんらくといい、林邑五破陣楽りんゆうごはじんらくの一つの雄壮な武舞である。
これは神功皇后の時に率川いさがわ明神が先頭にたって軍士を指揮した様を表したものといわれている。
舞人は赤い隆鼻黒髭の威厳のある面をつけ、別様の鳥甲とりかぶとをかぶり、毛べりの裲襠りょうとう装束を着け、太刀をき、鉾をもって舞う。
その舞い振りは勇壮活発で、武将らしい荘重な感じが漂っている。一人舞で、序と破が伝わっている。

貴徳(きとく)=右舞

漢の宣帝の神爵しんしゃく年間に匈奴きょうどの日逐王が漢に降伏し貴徳侯になったという故事によっている。舞人は白い隆鼻白髭の面をつけ、別様の鳥甲とりかぶとをかぶり、裲襠りょうとう装束を着け、太刀をき、鉾をもって舞う。その舞い振りは気品高く勇壮である。
破と急が伝わっている。散手と番舞つがいまいで「中門遷ちゅうもんうつりの舞楽」といい、かつて興福寺一乗院宮、大乗院御門跡、春日社司らがこの間に出仕したという。

抜頭(ばとう)=左舞

天平時代に林邑りんゆう(今のベトナム地方)の僧仏哲ぶってつが伝えた曲で、舞人一人が裲襠りょうとう装束で太いばちをもって舞う。
猛獣を退治した孝子の物語を表わしたもので、太鼓と笛の部分は獣と格闘する場面、合奏の時は復仇ふっきゅうを了え、山路を両手でわけつつ、喜踊して降ってくる状を表す。

落蹲(らくそん)=右舞

納曽利の二人舞をいう。枕草子に「落蹲は二人して膝踏みて舞ひたる」とあるのがこれで、南都楽所の右方舞である大神おおが流独特のものである。相撲の勝負舞として舞われ、抜頭と一対をなす。
以上の三番(六曲)を走舞はしりまいという。