春日若宮おん祭

御渡り式について

Owatarishiki

12月17日 正午

ルート:奈良県庁前→近鉄奈良駅前→三条通→御旅所

御神霊が多くの神職・楽人等を従えてお旅所の行宮あんぐう(御仮殿)へ遷られることを一般に「御渡り」と言うが、おん祭の場合は御神霊の行列ではなく、既に行宮へ遷られた若宮様のもとへ、芸能集団や祭礼に加わる人々が詣でる行列の事をいう。
この様子は、意匠を凝らした華やかな風流ふりゅうの行列としておん祭の大きな魅力の一つとなっている。明治時代以降に加わった先行の行列とさらに古い伝統の行列が、登大路を西に下り、近鉄奈良駅より油阪を経て、JR奈良駅前からまっすぐ東へ三条通りを登り、興福寺旧南大門前にて「交名きょうみょうの儀」を、一の鳥居を入ってすぐ南側の「影向ようごうの松」の前で「松の下式」を行って、御旅所へ練り込む。行列規模は馬50頭と奉仕者1000人にも及ぶ。
中心は、平安時代から江戸時代に至る風俗を満載した伝統行列の部分である。創始の際には「楽人・日使・巫女・伝供御供・一物・細男・猿楽・競馬・流鏑馬・田楽」とその骨格を整えており、旧儀が長く守られながら、時代の流れに応じた姿を見せるのがこの御渡り式である。  

第一番 日使(ひのつかい)

赤衣せきえ千早ちはやと呼ぶ白布を肩にかけ、先を長く地面に引いて進むのが「梅白枝うめのずばえ」と「祝御幣いわいのごへい」で、次に青摺りの袍を着けた「十列児とおつらのちご」(騎馬四人。巻纓冠(けんえいかん)に桜の造り花を挿し、御旅所では東遊あずまあそびを舞う。)、頂に鶴を飾った風流傘を差掛けられた「日使」(騎馬。黒の束帯そくたいに藤の造り花を冠に挿す。)が続く。日使ひのつかいとは関白の藤原忠通公がおん祭に向かう途中、にわかに病となり、お供の楽人にその日の使いをさせたことに始まるといわれる。関白の格式を表わすものとして、この行列の中心的な存在といえる役である。日使の後には、緋色の衣冠に山吹の造り花を冠に挿したお供の陪従べいじゅう(楽人。二人。)が続き、松の下では馬上で短かい曲(音出こわだし)を奏する。

第二番 巫女(みこ)

白の被衣かずきをいただき、風流傘を差しかけられながら騎馬で進む女性が巫女みこ(拝殿八乙女)である。春日大社では巫女を伝統的にミカンコと呼ぶ。錦の袋は「御蓋おんかさ」で、春日明神が影向された時に用いたものと伝えられている。他に「辰市神子たついちのみこ」「八嶋神子やしまのみこ」「郷神子ごうのみこ」「奈良神子ならのみこ」も参勤する。

第三番 細男・相撲(せいのお・すもう)

浄衣じょうえ(白衣)姿に清浄感を漂わせながら騎馬で進む六人の人々は細男せいのおの一座である。細男は、神功皇后の伝説にちなむ独得の舞を演じる芸能で、現在ではおん祭にしか伝わっていないとされる。
松の下では馬上で「そではい」という作法をする。その後には、細纓老懸さいえいおいかけの冠に赤や緑の袍を着た十番力士・行司・支証が続く。

第四番 猿楽(さるがく)

猿楽さるがくは能楽の古名である。その後に続く田楽でんがく一座も盛んに能を演じていた時代があったので、今もこの名が踏襲されている。現在は金春座が出仕しているが、もとは観世・金剛・宝生を含めた大和猿楽四座が出仕し、おん祭はその格式高い競演の場として古来より有名である。松の下では「開ロかいこう」「弓矢立合ゆみやたちあい」「三笠風流みかさふりゅう」を演じ、御旅所入口では金春大夫が「らち明け」を行う。

第五番 田楽(でんがく)

華やかな五色の御幣をおし立てて、綾藺笠あやいがさをつけ、編木ささら・笛・太鼓を持つ集団が田楽座である。おん祭で行われる芸能のうちで最も興福寺と深い関係をもってきた芸能集団で、 かつては祭礼当日までのさまざまな行事に加わっていた。 今でも16日には大宮及び若宮への宵宮詣、17日には御渡り式に先立って初宮神社(奈良市内鍋屋町)への初宮詣、松の下・御旅所と各所で芸能の奉納を繰り広げている。奈良一刀彫りの起源といわれる人形を飾った大きな花笠を頭上に乗せた笛役の二﨟にろうはひときわ人目を引く。松の下では「中門ロちゅうもんくち」「刀玉かたなだま」「高足こうそく」等を演じる。

第六番 馬長児(ばちょうのちご)

山鳥の尾を頂に立てた「ひで笠」をかぶり、背中に牡丹の造り花を負った騎馬の美しい少年は馬長児ばちょうのちごである。もとは興福寺の学侶が交代で頭人となり稚児を出していた。
その後には、五色の短冊をつけた笹竹を持ち、龍の造り物を頭にいただき、腰に木履を一足吊り下げた者が二人ずつ従う。これは「ひともの」と呼ばれるが、もとは馬長児そのものが「一つ物」であり、御渡り行列の一つの中心を成してきたと考えられている。

第七番 競馬(けいば)

赤と緑の錦地の裲襠りょうとう装束に身を固め、細纓冠さいえいかんをつけた騎者は競馬の一行である。かつては、五双(二騎ずつ五回)が参道を疾走していた。 馬出まだしの橋と馬止まどめの橋はその時のスタートとゴール地点であった。現在は三双が馬出の橋から出発し、御旅所前の勝敗榊しょうはいさかきまで競う。舞楽の蘭陵王と納曽利はこの競馬の勝負によって演奏されてきた「勝負舞しょうぶまい」であるので、左右の馬の勝敗数により、左舞の蘭陵王と右舞の納曽利の順番が決められる。

第八番 流鏑馬(やぶさめ)

赤の水干につづらがさをかぶり、背にえびらを負い重藤しげとうの弓を手にした少年は揚児あげのちご・白の水干は、射手児いてのちご(二名)である。当初、大和国内のさむらいらは華やかな流鏑馬を神前で繰り広げたが、やがて士の稚児が奉仕するようになったと伝わっている。この流鏑馬は、往古にはかがり火をたいて夜中に催された。

現在は揚児を先頭に都合三騎の稚児が、一の鳥居内の馬場本を「祝投扇いわいのなげおうぎ」の所作をおえて走り出し、一の的より三の的まで順次射ながら進んでいく。

第九番 将馬(いさせうま)

将馬いさせうまは、かつて大和の大名家中より奉った引き馬の名残りで、神前に馬を献じた古習を示すものでもあろうか。馬上には人を乗せず、その名の示すように、かつては馬をはやして勇みたたせたようである。

第十番 野太刀(のだち)

5.5メートルほどもある見事な大型の野太刀を先頭に中太刀・小太刀・薙刀なぎなた数槍かずやりと続く。太刀・槍などのいわばオンパレードで、御渡りにひときわ偉観を添えているが、風流行列の趣きをよく伝えるものである。

第十一番 大和士(やまとざむらい)

かつて流鏑馬を奉納した大和武士の伝統を受け継いでいるのが、願主がんしゅ役・御師おし役・馬場役ばばやくをはじめとする大和士などの一団である。おん祭は元々、興福寺衆徒しゅとが主宰していたが、衆徒(僧兵)国民(武士)が大小名化すると、「若宮祭礼流鏑馬願主人」を名乗り、ついにはおん祭全体の主催者のようになった。彼らは六党に分れて交代で願主人等を勤めていたが、豊臣秀吉の全国制覇で壊滅してからも、長谷川党(六党のうちの一つ)の法貴寺氏人が願主人に仕立てられ、さらに明治維新後は旧神領の人々がこれを勤めて現在に至っている。

第十二番 大名行列(だいみょうぎょうれつ)

大名行列は、江戸時代から御渡りに加わった武家の祭礼の伝統を受け継ぐもので、大和国内の郡山藩・高取藩などが奉仕した。一時衰退していたものを昭和54年に奈良市内の青年達の手によって大名行列保存会が 結成され、「ヒーヨイヤナー」「ヒーヨイマカセー」「エーヤッコラサノサー」の若々しい掛け声が聞かれるようになった。その後、子供大名行列や郡山藩の行列も整えられ、御渡りの最後を締めくくるにふさわしい心意気をみせている。