御渡り式について
Owatarishiki
第一番 日使(ひのつかい)
赤衣に千早と呼ぶ白布を肩にかけ、先を長く地面に引いて進むのが「梅白枝」と「祝御幣」で、次に青摺りの袍を着けた「十列児」(騎馬四人。巻纓冠(けんえいかん)に桜の造り花を挿し、御旅所では東遊を舞う。)、頂に鶴を飾った風流傘を差掛けられた「日使」(騎馬。黒の束帯に藤の造り花を冠に挿す。)が続く。日使とは関白の藤原忠通公がおん祭に向かう途中、にわかに病となり、お供の楽人にその日の使いをさせたことに始まるといわれる。関白の格式を表わすものとして、この行列の中心的な存在といえる役である。日使の後には、緋色の衣冠に山吹の造り花を冠に挿したお供の陪従(楽人。二人。)が続き、松の下では馬上で短かい曲(音出し)を奏する。
第二番 巫女(みこ)
第三番 細男・相撲(せいのお・すもう)
浄衣(白衣)姿に清浄感を漂わせながら騎馬で進む六人の人々は細男の一座である。細男は、神功皇后の伝説にちなむ独得の舞を演じる芸能で、現在ではおん祭にしか伝わっていないとされる。
松の下では馬上で「袖の拝」という作法をする。その後には、細纓老懸の冠に赤や緑の袍を着た十番力士・行司・支証が続く。
第四番 猿楽(さるがく)
第五番 田楽(でんがく)
第六番 馬長児(ばちょうのちご)
山鳥の尾を頂に立てた「ひで笠」をかぶり、背中に牡丹の造り花を負った騎馬の美しい少年は馬長児である。もとは興福寺の学侶が交代で頭人となり稚児を出していた。
その後には、五色の短冊をつけた笹竹を持ち、龍の造り物を頭にいただき、腰に木履を一足吊り下げた者が二人ずつ従う。これは「一つ物」と呼ばれるが、もとは馬長児そのものが「一つ物」であり、御渡り行列の一つの中心を成してきたと考えられている。
第七番 競馬(けいば)
第八番 流鏑馬(やぶさめ)
赤の水干に笠をかぶり、背に箙を負い重藤の弓を手にした少年は揚児・白の水干は、射手児(二名)である。当初、大和国内の士らは華やかな流鏑馬を神前で繰り広げたが、やがて士の稚児が奉仕するようになったと伝わっている。この流鏑馬は、往古にはかがり火をたいて夜中に催された。
第九番 将馬(いさせうま)
第十番 野太刀(のだち)他
5.5メートルほどもある見事な大型の野太刀を先頭に中太刀・小太刀・薙刀・数槍と続く。太刀・槍などのいわばオンパレードで、御渡りにひときわ偉観を添えているが、風流行列の趣きをよく伝えるものである。
第十一番 大和士(やまとざむらい)
第十二番 大名行列(だいみょうぎょうれつ)
大名行列は、江戸時代から御渡りに加わった武家の祭礼の伝統を受け継ぐもので、大和国内の郡山藩・高取藩などが奉仕した。一時衰退していたものを昭和54年に奈良市内の青年達の手によって大名行列保存会が 結成され、「ヒーヨイヤナー」「ヒーヨイマカセー」「エーヤッコラサノサー」の若々しい掛け声が聞かれるようになった。その後、子供大名行列や郡山藩の行列も整えられ、御渡りの最後を締めくくるにふさわしい心意気をみせている。